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百姓稼業とは「九苦に一笑」
中村顕治
 愛惜。それは、大いにもがき、苦しみ、その合間に小粒でもピリッとした、山椒みたいな喜びと高揚がある、そんなところに生じるようだ。かつ愛惜の情は不意。燃え盛る残暑のなか、ポットにまいた白菜が、今朝ふと気付けば黒土の下から薄緑の葉をのぞかせているように、過ぎ去った時への愛しさもまた、百姓の心に不意に芽生える。
  気温17度の月の夜。激しく、苦しかったあの夏を、僕はいま愛しく思っている。日照時間は平年の半分。ナスもピーマンも肥大せず、雑草だけが旺盛に伸びる。「野菜異常高値」がテレビでしきりと伝えられる7月だった。
  8月1日梅雨明け。ああ待ち焦がれた太陽よ。しかしまさか、あんなシナリオになっているとはなあ。梅雨明け後の気温は、今日は昨日より高く、明日は今日よりさらに高い。ついに39度を越えた。3分闘って1分休むボクサーのごとく、ワン作業ごとに水を浴び、僕は畑でファイティングポーズを取った。

  目覚めた瞬間の疲労感はゴキブリホイホイにからまったような粘り。それでも36年続けている朝のジョギングを休まなかった。わが子ほどの年齢の男性がそのジョギング中に、またゴルフをしていた人や農作業中の人が熱中症で倒れ、亡くなったとテレビは伝えた。
  同じころ僕はブルーベリー収穫に奮闘していた。7月の実は長雨で甘くなく、猛暑とともによく熟した。直立静止して受ける太陽熱は鍬を使う仕事より強烈だった。顔から湧き出る汗が手に持つ弁当箱パックに落下しないよう毎度苦労した。
  5時に荷物を出すと同時に畑に走った。キュウリも里芋も生姜も水を欲しがっていた。40メートルのホースが届かない所は特大如雨露を持って何十往復かした。最終ラウンドを迎えたボクサーのような疲労感。一方に達成感もあった。牛乳瓶1本分の重油を焚いて冬のピーマンは6個出来ると聞いたが、さて、オレの汗1リットルでは何個のピーマンが出来るか。

  汗は人間を原初の動物にする。大量の汗に濡れたシャツが土ぼこりにまぶされ太陽熱で蒸される。すると動物みたいな、庭で飼う仔狸「タヌ子」みたいな臭気が体から舞い上がった。オフィスでパソコンに向かう人が自分の汗に興奮するなんて、たぶん、あるまい。夕暮れの百姓はわが汗に刺激され、ワイルドになった。かつ野菜たちには優しかった。おまえたち、この水を飲んでよく眠れ。オレはおまえたちの世話がすんだらビールを飲む。
  今はもう秋。窓の向こうで月が涼しげな顔。愛惜は不意にやってくる。僕の3度の別れはみな積乱雲の真下で起こった。単なる偶然。それとも燃える夏は男女の愛までオーバーヒートさせてしまうものなのでしょうか、お月様……。
  僕と一緒に酷暑を乗り切った白菜は今ごろ心地よい夜風の中でぐっすり眠っているだろう。僕は中天の月に問いかける。百姓稼業とは「九苦に一笑」かと思うのですが、いかがお考えですか?
  苦労ばかりと嘆くわけじゃあない。九の苦労が残りの一を妙に味わい深いものとする。炎暑、台風、長雨、氷雨。まるで障害物競走だ。飛んで、くぐって、あえぎ、ゴールに駆け込む。ああ、でも、お月様、この暮らし、けっこう面白い。直線平坦の道を走るより、僕の性にはこっちのほうが合うみたいです。
−プロフィール−
【なかむら・けんじ】昭和22年山口県生まれ。33歳で築50年の農家跡に移住。現在は千葉県八街市在住。典型的な多品種少量栽培を実践。チャボを庭に放任飼育する。
【No8(2007年冬号)掲載】
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