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上原さん夫婦と下の二人の子供たち。独立の証となる自らの船の名は「直栄丸」。直美さんの一字をもらった。初入港の際には師匠をはじめ知人から贈られた祝いの「フライキ(進水旗)」に彩られ港にやって来た |
きっかけはマリンスポーツ
山口県宇部市出身の上原正樹さん(41歳)は、山口市内にある電機メーカーの会社員として20年働いてきた。3年前、山口県の日本海側、萩港から9キロ沖に浮かぶ萩大島に家族とともに移住。漁師となった。きっかけとなったのはマリンスポーツだった。
「ジェットスキーやウェイクボードが好きで、見島によく来ていたんです」という上原さん。見島とは萩大島よりさらに30km以上沖にあるマリンスポーツのメッカ。頻繁に遊びにいくうちに萩近海の島々を結ぶ萩海運の三谷さんと知り合いになる。地域の活性化などに力を入れている同氏との交流を通して「漁師」という職業を意識するようになっていった。
そこで県漁協などが行うニューフィッシャー確保育成推進事業を通じて求人を探したり、個人として周辺漁協を当たったりするなど「漁師」になるために奔走。そんななか、萩大島で定置網漁の漁師を募集していることを知る。「すぐに面接に行きましたよ」と上原さん。Iターン漁師を数多く受け入れてきた大島支店もその「やる気」を買った。

定置網漁船「名切丸」の漁師たち。船の上では専門用語が飛び交う。「最初は『ヤリを持ってこい』といわれてもなにを指すかわからず、動けなかった」と、上原さん。先輩が持ってきたロープを見て覚えた。いまは冗談もいい合う |
父さん、漁師になりたい
「最初に漁師になりたいと打ち明けられた時は『え………』でした。上の子は中1で難しい年ごろだったし、下の子は小学校に上がったばかりで小さかったから…」と、絶句した時の様子をまねて語ってくれたのは、防府市出身の奥さん、直美(40歳)さん。上原さん同様、漁村には縁のない環境で育ったが、一緒に見島に来ていたこともあって抵抗はなかった。ただ、子どもたちが新たな環境になじめるか、友達はできるかが気がかりだった。
移住には欠かせないポイントとなるのが家族の理解だ。上原さんは、暮らしや学校のことを、奥さんと子どもたちに丁寧に説明し、話し合いを重ねた。「家族がついて来てくれなければ漁師になれないので、けっこう必死でしたよ。でも、無理強いはしたくなかった…というか、それでは結局うまくいくはずがないので、家族の一人でも反対したら、あきらめようと思っていました」と、当時を振り返り、照れた。
「島に来たらですか? 先にとけ込んだのは子どもたちのほうでした。ご近所情報は、親より子どもたちのほうがよく知っているんですよ。ね」と、直美さんが上原さんを見る。
萩大島の人口は1000人に満たない。「ニュースの少ない土地なので、最初は一挙一動を『話題』にされて少し窮屈に感じた」というが、やがてそれもなくなった。それどころが、来てみて自分たちと同世代の人が多いことが分かり、驚いたという。豊富な漁獲高とタバコ栽培などの豊かな農地に恵まれて若い世代が多く、子どもが走り回る活気ある土地。それがこの島の姿だった。
上原一家はこうして萩大島の一員となり、現在は島に来てから生まれた女の子を加え、5人で暮らす。
実は泳げないんです
漁師の仕事のほうはというと、上原さんは、定置網漁だけではなく、自分の船で潜海漁(海士)もこなす。その内容はスーパーフィッシャーマンとでも呼びたくなるほどの仕事ぶり。詳しくは写真を追って読んでほしい。ここでは潜海漁を始めたころの話をしよう。
「海士を始めたのは、もっと稼ぎたかったから」という上原さんは、移住してほどなく、夜に出漁する定置網漁と時間的に重ならない海士をやろうと決心。大島支店の支援制度を利用し、師匠、刀禰重男さん(49歳)についた。
「師匠にあきれられたことがありまして。実は私、泳げないんです。だから最初の2カ月はひたすら潜る練習…。うまく潜れなくて何度も『辞めちまえー』と怒鳴られましたねえ」と、ゆったりと、おどけた口調で上原さんが語ると、苦労がないように聞こえるが、刀禰さんの教育は厳しいことで有名だ。しかし、師匠は「島で一番を競う」と国光支店長も太鼓判を押す海士。「ほかの海士が『獲物がいない』といって移動した場所からウニを採ってくる。魔法のようですよ」と、不思議がる上原さんからも尊敬している様子がうかがえる。
優秀な師匠の指導のもと、海士修行をすること2年。自分の船も購入し、いま、海士として本格的な一歩を踏み出した上原さんだ。 |