萩原茂男49歳。下町情緒を色濃く残す大阪市天満で少年時代を送り、龍谷大学進学と同時に京都市郊外で一人暮らしを始める。大学院卒業後、再び大阪に戻り広告会社に就職。自然から離れ、都会での仕事に没頭したが、40歳を前にして林業に飛び込んだ。彼を森へと導いたのはなんだったのか。
発想法を身につけた学生時代
萩原の故郷は大阪の下町。少年時代は、氷屋を営む実家近くにたくさんあった空き地で遊ぶのが好きだった。ところが万博以降、町が急速に都市化。息苦しく感じ、大学進学と同時に京都市郊外に下宿。進学したことより都会から出られることがうれしかった。
学生時代はツーリングに明け暮れる毎日。バイト代が入るとバイクにまたがり一人旅。大学院に進んだのも、もう少し遊んでいたかったから。「ええかげんだったんですわ」と自らを評する。けれども単に不まじめな学生だったわけではない。大学院入学では、しっかり教授推薦を受けたり、得意のイラストをふんだんに使った研究発表のレジュメが人気を博したりした。

陰陽道の神社である賀茂神社がひっそりとたたずむ。名田庄の歴史は古い |
「川喜田二郎法(KJ法)」という発想法にはまったこともあった。思い付いたことをカードに記していく手法で、当時の知識人が活用している方法を自分も試せることがうれしかった。この時は研究のため、図書館にこもり没頭。
「漫画などで両脇に本を積んでいる場面ってあるでしょう。あれをマジでやってしまいました。消しゴムを取ろうとしてコーヒーカップに指を突っ込んだり…」というくらいだから、興味あることへの集中力は半端じゃない。
KJ法は、現在、萩原のなかで「マインドマップ」という発想法につなげた。思いついたことを言葉と絵にしていく手法だ。これをNPO活動や地域に関する多くの企画立案をするときにフル活用。その企画書は楽しげなイラストが描かれ、カラフルで独創的だ。

現在萩原が企画立案時に利用する「マインドマップ」 |
ふとわいた疑問
大学院卒業後は、実家のある大阪へUターン。広告会社に就職したのは1988年、29歳のことだった。
世の中はバブル期。寝る暇もないほどがむしゃらに働き、一通りの仕事を覚えて落ち着いてきたのが3年目。結婚して長男をもうけていた。
そんなある日のことだった。通勤電車のなかでつり革にぶら下がるようにして住宅街に点在する緑を眺めていて、ふと疑問がわいた。
「日本に木が1本もなくなったらどうなるんやろう」
萩原はこの疑問を「声」という。「頭のなかで『声』が聞こえたんですわ。僕の人生は『声』以前はない。『声』より後なんです」と比喩するほど、唐突にこの疑問に取り付かれてしまった。
その日から、本屋と図書館に通っては本を読みあさり、木や森、環境に関する知識を詰め込んだ。休日には森林公園や山方面へドライブするのが習慣に。森林インストラクターの勉強まで開始した。
持ち前の探究心から、とことん調べ、考えた。そして答えが書物ではなく「森そのもの」にあると気付くや、移住と転職を決意。以前から「田舎暮らしをしたい」と思っていた妻、和子からも異論は出ず、むしろ飄々とした態度に助けられた。

「森んこ」の活動対象、老左近集落。裏手の山はくしくも萩原最初の「現場」だ |
山村「名田庄」へ
名田庄に移住したのは求人誌で同森林組合の「現業職員募集」の文句を見たのがきっかけだった。現業職員とは、会社員同様、給料で組合に雇われる雇用形態のこと。
年齢や経験を考えると、田舎暮らしの生活基盤が築ければ職業はなんでもいいと思っていた。だから「森の仕事に携われて、なおかつ安定した収入が得られるなんて、なんてありがたいんやろ」と思い応募。その時は選に漏れたが、半年後の募集で採用となった。
配属は、新人教育の場でもある造林班。通常はこの班で一通りの作業をこなせるようになったら、ほかの班に振り分けられていく。
彼もそのように考えていた。ところが、就業から1年後、造林班の班長に推された。「なぜ自分が」と思ったが、若者や移住者の多いこの班で後輩の面倒を見てほしいとの期待からか、その後も長らく務めることになった。異例のことだった。
一方、仕事にも慣れた就業3年目、以前挑戦して頓挫したままになっていた森林インストラクターの勉強を再開。仕事で森に関わるだけでなく、ボランティア活動などへもアプローチしたかったからだ。

森林組合社宅を買い上げ自宅に。手前のヒノキは越してきた時に植えた11 年生 |
子どもの感性が活動の原点
体力的にきつい夏場を除き、毎晩10時に就寝し、朝4時に起きて勉強をする日々。それがやがて周囲に伝わり、ある時、保育園から自然体験学習をやってほしいと依頼がきた。チャンスだと思った。
その日はあいにくの雨。子どもたちを前にかなり緊張したが「それなんや」と、持ってきたカードに一人の児童が興味を示してきた。
「え? あぁ動物カードや。この絵、なんやかわかるか?」
「トラ〜」と、数人が答えた。
「ほなこれは?」
「ライオ〜ン!」

岩の鼻遺跡館から望む名田庄。村中央を流れる南川底から縄文遺跡が発見された |
たくさんの児童が周りに集まってきた。ゾクゾクした。のってきた彼はその後、皆で木をまねるジェスチャーゲームを思い付く。「今度は1本木や!」という号令のもと、萩原が幹になり、児童が枝や葉、花をまねた。そんななか、一人床に寝転んでこっちを向いている男の子がいた。気になって「なにしとるん?」とたずねると「おいは根っ子や!」と、威勢のいい返事が返ってきた。
「これを聞いてガッツーンと殴られたような衝撃が体に走ったんですわ。子どもってなんて感性が豊かなんだろうって思ったら、目頭が熱くなりました。この瞬間は今も忘れません」
この日の体験が原点となり、森林インストラクターの資格取得後の04年4月、仲間3人とボランティア団体「森んこ」を立ち上げた。対象は子どもか親子。3人の我が子がまだ小さかったこともあったが、子どもの感性をもっと感じたかったし、伸ばしたいという思いが強かったからだ。

冬の朝、水道管が破裂。知人と出合い、状況を聞く |
「答え」探しへのステップ
こうして仕事とボランティア活動を両輪として森に携わってきたが、「森んこ」をNPO化した06年以降、活動の依頼が次々と舞い込んできた。それだけではなく、役所から地域の活性化に関する委員会に…といった萩原個人への依頼も激増。多忙を極めるようになった。うれしい悲鳴だったが「危険をともなう林業現場の班長がたびたび休むのはまずい」という問題を抱えてしまった。
そこで組合に「班長を辞めさせてほしい」と頼んだが答えは「ノー」。1年後、今度は「組合を辞めたい」というと「作業班に移らないか」との打診を受けた。作業班とは、組合から2〜3人単位で仕事を請け負う就業形態。働いた分だけ報酬が払われる。仕事以外の活動もしたい彼にとっては理想的な働き方だった。虫がよすぎないかと悩んだが、どっち付かずになるのもいやだった。07年4月、10年勤めた現業職員を辞めて作業班に移動した。

新築の保育園。建設のための委員会に参加。紆余曲折を経てやっとできあがった |
それから1年。「作業班の給料は完全に歩合制。3人が同じ日数働いたら三等分。はっきりしていて、気持ちがええ」と、表情に曇りはない。
森の仕事に就いて11年。「根っ子」との出合から6年。「森んこ」を立ち上げてから4年。いろんな通過点を経てきた。現在、名田庄を舞台とする萩原の活動は多岐にわたる。今後は「森んこ」の活動をもっと広げていきたい。「いま、人の住まなくなった老左近集落を復活させようという事業にも取り組んでいるんですよ。町の事業として「森んこ」が委託されています。まだ調査段階ですけど」と笑う。
「木が1本もなくなったら」という思いに駆られ、名田庄にやってきた。これからもその答えを探すため走り続ける。[敬称略] |