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機織りの作業。しな織は、織る作業よりも、糸をつくる作業のほうがより難しいといわれている |
日本でも有数の豪雪地帯、山形県鶴岡市関川。ここは、山向こうの新潟県山北町とともに、日本最古の織物「羽越しな布」の伝統を守り続ける唯一の地域だ。
雪国の冬は長い。農閑期に女性が集まって世間話をしながらしな糸を紡ぐ、いわゆる「しなをうむ」作業は、この地域の冬の風物詩。女衆の冬場の仕事であるしな織は、母から娘へ、姑から嫁へ─その熟練の技が受け継がれてきた。
沖縄県の芭蕉布、静岡県の葛布と並ぶ、日本三大古代布のしな布。しかし、中山間地域の担い手不足の波には勝てず、この手技の継承が危ぶまれた。そこで、しな織の振興と村おこしを目的に、温海町(現・鶴岡市)が関川しな織センターを1985年に建設。94年には、研修第1期生を受け入れた。小野由香里さん(45歳)は、02年からの第5期生。
「伝統を後世に伝えるためにも、しな織が広く世間に認められれば…」
当時からそう考えていた小野さんの願いがかない、05年9月、「羽越しな布」は国の伝統的工芸品に指定された。

集落の女性が集まる「しなうみ会」は、冬の間、不定期に開催している。話しながらでも糸を紡いでいける熟練者たちの手技は見事 |
熱意で押しまくって研修生に
小野さんは、新潟県村上市出身。高校を出て専門学校へ行き、卒業後は東京に上京してフラワーアレンジを手がける会社に勤めた。六本木や青山のイベント会場で花をセッティングするなど、華やかな世界に身を置いていたが、仕事に追われる毎日が心を空虚にさせていった。
そこで20代を過ごした東京を後にし、いったん実家へ戻る。このころから伝統的な手技へのあこがれを抱くようになり、持ち前の行動力で、地元の瓦葺き職人に弟子入りする。しかし、学生時代に器械体操で痛めた腰の古傷が悪化し、37歳の時にやむなく仕事を辞めることに。
それでも職人への夢を諦めきれず、インターネットで見つけたしな織に興味ひかれ、新潟県の「さんぽく生業の里企業組合」に研修させてほしいと頼み込んだ。
「募集の年齢や条件にあてはまらなかったけど、無理を承知でお願いして…」
すると、町役場の人から「山形の関川でもやっているから」と紹介され、39歳という年齢で研修生になった。
研修期間は2年間だが、覚えたりないとさらに頼み、3年目も指導を受けた。

第8期生の二人。千葉出身の門元有寿さん(25歳、左)と、東京出身の笠井範子さん(33歳、右)。研修生の寮で共同生活している |
地域の人たちに支えられて
しな織は、この関川で脈々と守り続けてきた伝統工芸。だから当然、門外ならぬ「集落」不出の手技である。そうなると、関川周辺に居を構えなければ、しな織を続けられないことになる。そこで小野さんは、鶴岡市内に物件を探した。
「女性のひとり暮らしだから貸し手がいないんです。おまけに、織り機や糸車など、大きい機械を入れるとなると、条件に見合う物件がなかなかなくて」
友人から不動産屋の伯父さんを紹介してもらい、汚さないようブルーシートを室内に敷く約束で賃貸にこぎつけた。
研修を終え、工房兼住居を用意したが、木の皮が手に入らないと、糸がつくれない。だが、この段階ではまだ、一緒に山に入ってくれる人は現れなかった。
でも、せっかく運び込んだ織り機を使いたいと、実母のつてで新潟の山から自分でしなの木の皮を採ってきた。それで、いてもたってもいられず、集落内でベテランの野尻さつ子さんに皮の煮方を教えてくれるように頼みこんだのである。
「さつ子さんには、あくの灰分量からしな皮の巻き方まで、一から十まで教わりました。厳しいけど、温かい、かけがえのない恩師です」
翌年には、五十嵐勇喜専務(現・組合長)が一緒に山に入ってくれ、皮のはぎ方を教えてくれた。さらに、奥さんの喜代さんが、しな皮まきからしな糸ができあがるまで面倒を見てくれた。
こうして少しずつ関川の人たちに認められるようになり、現在、しな織協同組合の組合員にも籍を置く。もちろん、ここまでに至ったのは、小野さんの「食らいついたら離さない」熱意が集落の人たちに伝わったからにほかならない。
「先人たちの知恵、手技、それに惚れ込んだんです。このすばらしい技術は絶やしちゃいけない。自分はまだまだヒヨッコだけど、私が周りの人に教えられ、支えられたように、これからは後輩の研修生に心も技もつないでいきたい」
しな織は、織ることよりも、糸をつくるほうが至難の業といわれる。小野さんは、今後の目標をはっきりと語る。
「小物などの商品になっても、『ああ、これは自分の糸だ』とわかる糸をつくりたい。糸を煮ることも、うむ(紡ぐ)ことも、エキスパートになりたい」 |