べッドから起き上がる。肩、肘、背中、腰、あちこち痛い。雨戸を開ける。燦々と光が注ぐ。風もカラっと乾いている。よっし、行こうか。体は重い。でも、さあ行けと背中を押すのはいつも朝の光と風である。
全身がガタピシする。理由は明確。動力なし。全て人力。鍬やスコップを使う作業は日々九時間。今年はそれに更なる事情が絡む。トマト、ナス、ジャガイモ、ピーマン…毎年大きな面積を占めるナス科。連作を避けるために処女地が欲しい。竹藪を開墾することにした。相手は孟宗竹。スコップとノコギリと、十キロ近くある鉄斧での作業は体にこたえた。半月後、そこにビニールハウスを建てた。
起きたらすぐランニングか自転車。起床時の重たい感覚がそれで少しずつ和らぐことを経験から知っている。でも、しかし…走りながら思う。日々訪れる疲労感の「深度」が若い頃とは違うんだな。更に思い至る。畑や庭を歩いていて、物が足に絡む、引っかかる。自分の意識ほどに足が上がっていない。そこで定義。老いとは自分の願うほどには足が上がらなくなること…。
この原稿を書いているのは五月も残り少なくなった頃。メディアは依然としてコロナ禍を伝えている。生病老死。病と死がいきなり身近になったこの二年間。しかし心の輝きは失いたくない。一日の最初の輝きは朝食。前回書い
た「屋上庭園」で珈琲を飲む。アベマリアを聴きながら。独唱、合唱、ピアノ独奏、協奏曲。十以上のバージョンをパソコンに貯めてある。僕には宗教心がない。次の世があるとも思わず神仏に手を合わせぬままこの齢まで来た。亡き人のことは…畑仕事をしつつ心の隅で偲ぶ。そんな男がシューベルトやカッチーニのアベマリアで燃える。この曲への理解は普通「静かで暗い」だろう。でも若者のロックほどに我が精神は高揚する。今日もバンバン働こう。珈琲を飲み干す。
畑仕事の合間、台風で壊滅した茶室を改修する。ベッドを作り、蚊帳を吊る。エアコンなしの熱帯夜は辛い。吹き抜けの庭に蚊帳ならばよく眠れよう。その作業に励みながら、これもトシ取ったせいなのかと考える。幼い命が絶たれる話がとても辛いのだ。我が子を虐待の末に死なせてしまった親のニュースが始まるとすぐにチャンネルを替える。
先日は養豚場の火事で子豚六千匹が焼死したというニュースに心が痛んだ。熱い炎の中でもだえ苦しむ子豚の顔が浮かんだ。人間でも動物でも、特に幼い命が死ぬことに今の僕は敏感に反応する。若い時代…これはなかったこと。
今年の梅雨入りはいつになるか。暑さも寒さも僕は平気。唯一の敵は梅雨。雨の中での収穫荷造りは「泥だらけの人生だぁ♪」。戯れ歌のひとつも歌いたくなるほど厳しい。もって、この五月の明るい光と乾いた風の喜びが募る。アベマリアの調べはほの暗い教会のステンドグラスに重なる。しかし五月の薫風、そよぐ青葉にも見事にマッチするのだ。その歌声が僕に告げている。「今という時間を懸命に生きよ」と。あと十年生きたい。我が人生にやり残しの未練事があるのか。そうではない。燦々たる光、乾いた風、そこに咲く薔薇の花、心地良さげに林から響き渡るコジュケイやウグイスの声。もっとタップリ、深く、それらを味わうため、長生きしたい。