今年の梅雨はあっさり明けた。祈りが通じた。毎年「雨量ほどほど、梅雨明け早目に」、お天道様にそう頼む。家が雨漏りするという事情もあるが畑仕事の支障が大きい。広くない農地をフル回転。作物はどうしても密植になる。密植は多雨に弱い。かつ、ネット予約で宅配システムに頼る僕は約束の日が雷雨でも荷作りする。トマトの灰色カビ病、ネギの赤錆病は梅雨明けと同時に消えた。キャベツを抱いて転ぶことなく、湿っぽい作業靴に足を通す必要もない。
僕の体重は例年旧盆の今頃が底値。ボクシングならフライ級まで落ちる。暑さのせいのみならず、毎朝ランニングし、畑はみんな手作業、そんな事情もある。
体はギリギリまで痩せるけれど、働く意欲は衰えない。梅雨明け以後の主な仕事は里芋、ヤーコン、アピオス、サツマイモの草取りと土寄せ。ポットまきした大豆の定植。気温34度の午後は、ちょっとの間、そこに置いただけのスコップが握る手に熱い。帽子も日よけのタオルも風通しが悪くて嫌いな僕の後頭部がスコップに負けず、また熱い。
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蝉の声が、焼けつく頭と背中にシャワーとなって降り注ぐ。少し離れた草むらではキリギリスが鳴く。ふるさと祝島ではチョンギーと言う。最初にチョンと鳴き、ギーと続く、だからチョンギー。まことに単純な命名だぞ。キリギリスの夏が来るたび、僕は畑で笑う。
里芋の土寄せ三畝目に入ろうとしたとき、春先まで使っていたビニールが半分土に埋まっているのに出会った。胸に抱いて移動しようと持ち上げたら蟻の大群。驚くべき数の卵。そばで遊んでいたチャボたちが蟻の卵を競って食べた。
僕は蛇もスズメバチも怖くない。だが蟻は警戒。その大群が体に取り付くと、どれほど念入りに振り払ったつもりでも何匹かがシャツやズボンにもぐりこみ、僕の皮膚にタップリ蟻酸を注入する。パンツの中にでもチン入されたら、とたんに仕事の効率が悪くなる。それにしても蟻ってやっぱり働き者だ。近くで鳴き狂う蝉とキリギリス。それに耳も貸さず、トンボやミミズを一致団結して巣に運び込む。イソップ物語そのままに。
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オレは蟻か、キリギリスか。熱中症になるギリギリまで仕事するからギリギリス…そんな冗談はやめ、真面目に考えてみる。夏の暑い午後、目の前には凍える冬の風景が広がる。ただしそれは「負の風景」ではなく豊穣の時。今これを頑張っておけば豊かな冬が迎えられる。「これ」とは里芋、アピオス、ヤーコン、大豆、長イモの草取り、そして土寄せである。これらの共通項は大豆を除き、晩秋から春まで土に埋めたままで、必要なとき掘り出して商品とし、食べたいとき自分の食料となる。
夏に流した汗の量だけ、冬の食卓に豊かな湯気が立ち昇る―こう思ってスコップを踏み込む僕はやっぱり蟻か。流れる汗が目にしみて手元が見えず、急ぎシャツの裏側で眼球を拭く僕はこの労働が辛くて泣いている、そう人の目には映るか。
ふふっ、どっちも違う。僕は泣いてなんかいない。蟻と違って歌うときもある。先のことしか考えず、貯金に励み、今を楽しもうとしないのは人間だって昆虫だって、どこか寂しい。地上が蟻だらけとなり、蝉もキリギリスも鳴かない沈黙の世界は味気ないじゃないか。
喉の渇きを癒すため、ブルーベリーとまくわうりを口に放り込む。まくわうりは故郷の味。ブルーベリーはサラリーマンから百姓への独立の成果。40年余の隔たりがあるふたつの果実は左右に並んで僕の風景を作る。蟻の精勤とキリギリスの享楽。それを僕は頭の隅に保留しつつ、ある日の人生相談を思い出す。29歳の青年はこう問う。
「生活のためだけに働いていると、努力が空回りしている感じで、生きていて本当に辛いです。自己実現できる仕事をしたいけれど、社会の現実は全然違います。どうすればいいでしょうか…」
哲学者がこう答える。「食うためにやっている仕事を黙々とこなしていけば、それが終わったときに、自分の好きなことに没頭できるわずかな時間が天からの贈り物のようにして残される…」。
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僕はまさに「食うため」に畑で働く。労働と報酬の関係はここでは明瞭。太陽が輝く時はとことん蟻になろう。日暮れたら下手な歌を陽気に歌うキリギリスに。蟻とキリギリス。どちらが善か悪かではない。一体でもって二体を完結。そのバランスの妙味を面白く体感させるのが百姓という稼業。僕はそう考える。