今年も残り二カ月。これを書いているのは十月末。僕はじき七十四歳。老齢になると時間が速く過ぎると言う。今年は特別だった。華々しく五輪が開催されるはずの七月は長雨、八月は猛暑。天気が安定するかと期待した九月も十月も日照時間が短く、ふと気付けば日の暮れは早く、やりかけの作業にせわしなさを感じる季節となっていた。
コロナ禍は依然として至るところに影響を及ぼしている。人々の暮らしにも社会のシステムにも変化が生じている。しかし僕は相変わらず判で押したような平凡な日常だ。ベッドを離れたら自転車かランニングで汗をかく。軽トラのワイパーに朝刊を挟み、ストレッチしながら読む。そして朝食。「屋上庭園」と称する自作の小屋でイチゴたちとともに光を浴びながら珈琲を飲む。
そんな朝、ある学者の言葉が目に留まる。「夏祭りや入学式、冠婚葬祭、海開きなどあらゆるものがなくなった。祝祭がなくなると季節感がなくなる。コロナ禍による巣ごもりで私たちはひっそりと動物になっていく…」。読んだ僕は思った。俺は以前から動物だったかも? 外出するのは荷物発送の時だけ。たまにスーパーかホームセンターに寄り、家を離れるのは一時間。巣ごもりはすっかり板についていた。
しかし季節感が失われたかといえばそんなことはない。野菜や果樹に芽が吹く。花が咲く。実りの時がやって来る。霜と結氷の時が訪れ、落葉が地面を覆う。世間の行事とは無縁でも四季の移ろいは確かに目前にある。加えて太陽光発電も僕に冬から春へ夏から秋への移ろいを教える材料だ。三十枚あるソーラーパネル。太陽の方位に合わせ位置と角度を変えて発電効率を高める。
振れ幅の大きい今年の天候は野菜にも果樹にも悪影響をもたらし農作業は苦戦した。それでも…いや、それゆえにと言うべきか、畑仕事に全力を尽くした後は大いに遊ぶこととした。脱サラ以後の僕にとって大工仕事は遊びと同義語。三カ月かけて二つの小屋を建築した。ひとつは先ほど書いた「屋上庭園」、もうひとつは、これまた自称で「喫茶たぬきん」。総面積は三十平方メートル。いずれにもイチゴ苗を植えた。寒い朝。珈琲の香りのすぐ隣でイチゴが赤く映えている…老人はそんな風景を想い描く。
僕のやることはいつも行き当たりバッタリだ。設計図なし。メジャーもめったに使わない。屋上庭園は二階建て。その二階に運び込んだ土と自作のテーブル類の全重量に床が耐えられるかどうか、全て勘でやってから何度も支えの脚を追加する始末だった。それでも野菜作りと同様、物を作るという作業は心を緩やかにする。ステイホームから来るストレスみたいなものがない。
不要不急の外出自粛が求められて家庭内のトラブルとか運動不足による肥満とかが増えているというニュースを耳にした。朝食をすませたらそれぞれが職場や学校に向かう。その平凡な日常がいきなり断ち切られ、四六時中、家族が同じスペースに留まるというのは愛情豊かな家庭といえども確かにストレスなのだろう。
しかし悪いニュースばかりではなかった。オンラインによる自宅勤務を契機として移住を考える人が増えたという。なるほど、パソコンさえあれば仕事は出来るという場合、何も都会に留まる必要はない。自然豊かで、その気になれば畑もやれる地方に移住するのは合理的だろう。
感染症は負の面だけではないと専門家は言う。細胞へのウイルス侵入は過去の歴史で人類の遺伝的進展を促したという。卑近なところでは社会を良い方に変革する機会でもあったかと僕は思う。会社員は満員電車に乗らずにすむようになった。父も母も子らも、ふだん多忙ゆえゆっくり向かい合うことのなかった趣味や思索を深めることが出来るようになった…いわば、本来あるべき人間性の回復にウイルスが偶然ながら手を貸したこととなる。
ステイホーム&エンジョイ人生。みんなコロナに負けるな。僕はひそかに畑でそう呟いている。