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農園歳時記

第39回 もうひとつのひきこもり

 この原稿を書き始めたのは五月三日。夜来の雨が上がり今朝は青空。風はひんやり。澄んだ光の下にバラが咲く。朝食時、ランチ時。テレビは駅と空港と高速道路の賑わいを伝える。この賑わいは三年ぶりという。僕もかつてその賑わいの中にいた。GWの二文字は若い血をたぎらせた。しかしあの血はどこへ行った。すでに二十年、どこに行きたいとも思わぬGWを過ごす。若い頃は恋しかった故郷もたまに思い出すくらい。テレビには、駅の改札口で孫を抱きしめる僕より少し若い男性の笑顔が映し出される。幸せな風景だ。

 どこにも行きたくない…それはトシのせいだけか。理由は他にもある気がする。都会から田舎に移住する。自分の手で植えた木々がどっしり根を下ろし、大木となる。木を植えた人間の精神もその地に深く根を下ろす。木は空に向かって大きく腕を広げる。でも足で動くことはない。移住の地に心の根を張った男。こちらもやはり、足はあるが、動かない。

 農家にとってのGWはやるべき作業が最も多い時期。トマト、ナス、ピーマン、カボチャ、ピーナツ、トウモロコシ、サツマイモ、生姜…。種をまき苗を植え、トンネルとハウスを仕立てる。世間の賑わいをテレビや新聞で見ながらの奮闘だ。前回のタイトルは「背中が曲がる」だった。畑仕事を終えた夕刻、欠かさず僕はストレッチやぶら下がり運動をするが︑いったん曲がった背中は元に戻らない。だが差し支えなし。スコップ作業六時間でも息は切れない。どっちがいいか。背中は曲がらず、でもすぐ息が切れるのと。

 五月九日。GWが終わり世間は元の姿に戻った。思えば会社勤めはアクセントが明瞭だ。土曜日と日曜日があり、九時五時という時間設定がある。時々僕は日にちと曜日が分からなくなる。新聞で今日が何日何曜日かを確かめる。これまたトシのせいとも言えそうだが、カレンダーと無縁な百姓暮らしという理由の方が大きいかも。

 そんな日々の中の楽しみは三時のお茶。馬なら人参。僕は三時のティータイムという餌をぶら下げ、鞭を入れる。ハウスでイチゴ二十粒ばかりをつまみ、小さなケーキ一つと熱い珈琲を飲みながらウグイスとカエルの声を聴く。しばし時が止まる。
そこで思い出す。数日前の朝日新聞「折々のことば」を。

むかしは一直線に進んでいくように感じていたけど、
ここでは回っている感じがする。

 鷲田清一氏の解説では、これは都会から宮崎県の里山に移住し、川上農園を営む夫婦の言葉だという。毎年同じことを同じ順でやる。やり損なってもまたやる。時間は直線でなく、回っている…。

 うまい表現だなと思う。僕も似たような感覚で百姓仕事をやる。コロナという厄介な敵がいる。どこかの国では戦争がなされている。それでも季節は確実にめぐる。春夏秋冬。四つの季節ごとにやる事は決まっている。頭に収めたカレンダーに従い種をまく、草を取る。収穫する、来年用の種を保存する。

 今日は五月二十四日。雨の多い五月。まさかこのまま梅雨入りでは。案じていたが明るい空がここ数日続く。今新聞・テレビが伝えるのは物価の高騰である。

 国際紛争と気候変動。パもラーメンも電気もガソリンも値上がりする。エネルギーと食料を他国に頼るもどかしさをあらためて感じる。太陽光発電で電気の完全自給に挑んでいる僕にとって、雨の多い五月、その心配は野菜のみならずエネルギー自給のことでもあったのだ。

 晴天の日はソーラーパネルがどんどん電気を作ってくれる、その喜びとともに荷作りも軽やかになる。荷作りしながら包み紙としての新聞を拾い読み。今日目にしたのは「部屋ごと移動・豊かなマイホーム」という記事だった。キャンピングカーはよく耳にするが、家をトラックに載せて移動するとは初耳だ。そう言えば、パソコンさえあればどこでも仕事が出来る、それで美しい景色を求め、あちこち移り住みながら生活する人も増えていると聞いたことがある。羨ましい話だ。

 羨ましいが、さて自分はとなれば全く動く気配なし。移住の地に、木々と共に我が心も深く根を張る。動かない。七十五歳にしてのひきこもり。でもこのひきこもり、暗くない、不健康でもない。乾いた風、澄んだ光、豊かな緑、多くの作物たち。幸せホルモンとも呼ばれる「セロトニン」。それをタップリ作り出す役者が「移住」という舞台に勢揃いする。でもってこの老年ひきこもり、生きる意欲

●プロフィール
中村顕治【なかむら・けんじ】昭和22年山口県生まれ。33歳で築50年の農家跡に移住。現在は千葉県八街市在住。典型的な多品種少量栽培を実践。チャボを庭に放任飼育する。ブログ「食うために生きる─脱サラ百姓日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/tamakenjijibaba