今朝、走りながらこの原稿のことを考えた。時間にして四十分。田んぼと川沿いの道が三キロ、バス通りが四キロ。雨でも雪でも走る七キロのこの道が僕の「動く書斎」である――などと言うとカッコよすぎるか。でも昔から僕は走りながら考えるのが好き。依頼された原稿だけでなく、ブログに書く材料、今日の農作業の手順、朝食のメニュー、あれやこれやを想いつつ走る。夏なら汗ダラダラだ。でも案外ランニングというやつ、頭をクリヤーにさせる。
長距離ランニングを始めたのは二十四歳のとき。世の出会いとは不思議なものと四十年以上たったいま思う。ランニングコースとして選んだ道が僕を現在の百姓にしたのだから。結婚して住んだ公団は「交通不至便」の地にあった。団地の舗装道路から外れると、葛の太いツルと大きな葉が地面を覆う山道だった。そこを毎朝走る僕は、ある時、まるで神のお告げでも受けたごとく、百姓の真似事をしてみたいと熱望したのだった。
思い立ったらすぐやる。それが僕の優れた点であり、欠点でもあるか。ランニングの山道で神の啓示を受けた僕はすぐさま行動に出た。「どなたか畑を譲ってください」というチラシを数百枚印刷し、新聞の折り込み広告としたのだ。だがこの行動は失敗だった。畑を売りましょうという人が現れ、仲介の不動産会社に手付を打ったけれど、農地法に基づいた手続きをしなければ、農地の権利が得られないことを知る。当時の僕は、そんな法律があるのを知らなかったのである。
だが人生は不思議。間もなく、僕のチラシを見たらしい農家の主が自分の畑を使ってよいという電話をくれる。その畑で七年間、人生最初の野菜作りを経験する。学校に例えれば僕は中学生だった。次は高校進学。当時暮らしていた公団から自転車で二十分という所に土地が二百坪で築五十年という古い農家の売り物と出会う。そこで初めて、野菜以外、すなわち果樹、山羊と鶏とアヒルの飼育を体験する。もちろん僕はまだサラリーマン。朝は山羊と一緒に利根川堤をランニングしてから出勤。農作業は主に週末だった。でも休日の朝が待ち切れず、会社の残業から帰った午後十時、部屋からコードを引っ張り、畑に電気スタンドを立てて種をまいたこともある。
僕の欠点は関心のない事にはとことん無関心、関心のある事には歯止めがきかなくなるということだろうか。高校に進んだ僕は今度は大学に行ってみたくなった。現実の大学は部活に熱心、折しも学生運動真っ盛りの時代、ほとんど講義も試験もないまま卒業できた。その埋め合わせということでもあるまいが「百姓大学」は熱心に通学し、学びたい、ゆくゆくはそれを職業としたい、そう僕は考えたのだった。
現在住む家と農地を日経新聞の広告で見つけたのは三十六歳の秋だった。そこで僕はひとつの賭けに出る。東京の不動産会社に百万円の手付金を打つと同時に、それまで住んでいた家と土地を売りに出した。でもなかなか売れない。このままでは手付金が流れる。不安の日々は四カ月続く。そしてようやく売れる。犬、猫、鶏、山羊、そして、百姓になったらもう買えないだろうと考え買い貯めておいた本千冊ほどをトラックに載せ、今の地に移ってきた。その日から二年半、僕は東京の会社に通った。往復五時間という通勤は夢がかなったという喜びゆえか、全く苦にならなかった。
眼高手低という言葉がある。知識ばかりが豊富で技術が伴わない、理想は高いが行動力がない、そんな意味だ。「眼中手中」の僕だから自慢めいたことは言えないが、過ぎた四十年を振り返って思うに、考える前に飛ぶ自分だったのは良かった。ともかく行動する、躊躇せず突き進む。そうであったからこそ今の暮らしがあるとも考える。「石橋を叩いて」も渡らない。人間それでは夢に届くまい。脱サラの百姓にもなれまい。霜月のよく晴れた今日という日、色付いた蜜柑を窓越しに眺めつつ、僕はそんな気がしているのである。