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農園歳時記

第10回 食うために生きる

人は生きるために食うか、食うために生きるか。古くからの命題である。若い頃の僕は「生きるために食う派」であった。全共闘世代共通のツッパリ理想主義が影響していたことは否めない。今はどうか。「食うために生きる派」に転向したかと自己分析する。理由はトシ取ったせい、ファイティングスピリットが磨耗したせいであろう。同時に、百姓になったせいではなかろうかとも考える。すなわち、百姓になった僕はうまいものに出会った。汗を流して精進すればうまいものが食える、その「因果」をすっかり学習させられてしまったのだ。

中学生になるかならないかの時代、僕は大いに腹をすかせた少年だった。今ならごく普通の豚肉もバナナも牛乳もない。即席ラーメンやドーナツだってない。これ以上は肥りようがないという極太のナス、キュウリ、それにジャガイモとエンドウ豆だけ食って育った。
肉への憧れが強かった。島だから魚はなんとか食えた。しかし肉は食えない。思いついた。放課後、釣竿を手に山へ登る。農業用の溜め池でコオロギを餌に蛙を釣る。そのままでは蛙が逃げるし、バケツがたちまち満杯になる。足以外に肉はない。釣ったら直ちに足をちぎる。足だけの山盛りを家に持ち帰り、茹でて、醤油をかけて・・ああ、美味だった。フランス料理に蛙が出てくるなんてこと、12歳の少年がまだ知る由もない。

イモ掘りに精を出す10月。色鮮やかなサツマイモを見ると思い出すことがある。これも50年近い昔。農林何号とかの水っぽいサツマイモを僕は違う味で食べてみたかった。ふかしイモはもう飽きた。天ぷら油で揚げたらうまいんじゃなかろうか。しかし祖母は油がもったいないと言う。男のクセに台所になんか入るなと眉を吊り上げる。

最近のサツマイモは豊かさと平和の象徴かも。ベニアズマ、ベニコマチ、鳴門金時、シモン。戦争中の苦い記憶がある70歳の兄はイモもカボチャも食わない。僕は5月の植え付けからして胸躍る。そして今はもう秋、イモの秋♪ オリーブ油で揚げた金時にチャボ卵のオムレツを添え、ピーマンとインゲンを緑彩とし、モカの香りで朝食を楽しむ。
すべて手作業で畝を立て、植えたサツマイモの苗400本。汗まみれで夏草を取った。ヤブ蚊に食われながらツル返しをした。あの苦労がここに報われる。
中学3年で東京に転校した僕に、クラスの番長は東京弁丸出し、花壇の柵を蹴飛ばしながら「シャクショー」と叫んだ。悔しかった。だが、モカの香りの中で優しく思う。ふふっ、あいつ、本当は百姓がなんだか知らなかったんだな。まっすぐ取り組めば、世の中でいちばん美味いものを食える、それが百姓なのだということを………知らなかったんだな。

食後のデザートはイチジクである。今の僕はイチジクオタクである。桝井ドーフィン、バナーネ、ビオレーソリエス、フレンチマルセイユ。写真にあるのは5種類だけだが、畑には15種類、30本の木がある。12歳で果たせなかった夢が、今ようやく叶った。
蛙の足でとりあえず肉の欲望を果たした少年は、今度は果物が食いたくなった。放課後、狩に出る。イチジクの木を見つける。そこはよその家の背戸だった。石垣に足を乗せ、まさにイチジクの実に手が届かんとした瞬間、障子の向こうから咳払いが聞こえた。僕は驚きとバツの悪さを抱えて退散した。逃がした魚は大きく、手が届く瞬間に逃げられたイチジクもまた大きい。
モカの香り、糖度25の完熟バナーネの蜜の甘さと大きさ。幸せな秋の朝、あの日の光景が胸に蘇る。障子の向こうの咳払いも聞こえる。そして僕は思う。今のオレはやっぱり食うために生きている。人生、そいでも、けっこういいもんだ。

●プロフィール
中村顕治【なかむら・けんじ】昭和22年山口県生まれ。33歳で築50年の農家跡に移住。現在は千葉県八街市在住。典型的な多品種少量栽培を実践。チャボを庭に放任飼育する。ブログ「食うために生きる─脱サラ百姓日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/tamakenjijibaba