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農園歳時記

第26回 食うという事

もしサラリーマンとして順調だったら、それでもあなたはお百姓さんになった? いつだったか僕に向けられたこの質問。即答をちょっとだけためらった。
秋の日の乾いた風と光の中でサツマイモを掘った。近隣の農家はまだだ。僕がよそより早く掘るのは冬越し作物のソラマメ、エンドウ、ニンニク、玉ネギが順番を待っているからだ。少量多品種という農法は百姓の手にも畑にも休む暇を与えない。
毎年サツマイモを掘るたび父のことを想う。父は海の人だったが、戦後の食料難に畑を借りてサツマイモを作っていたらしい。どれほどの収量があったか。豊作なら豊作で、急峻な山道を背負って運ぶのは大変だったろう。親心である。

秋の初め、母の命日に合わせ、メシでも食おうかと兄弟が集まった。兄七十七歳、姉七十四、弟六十六。そこで兄が披露した昔話が面白かった。我が家はふるさと祝島の中心部にあった。近くに大陽館という名の芝居と映画が掛かる所があった。娯楽の少ない、テレビさえなかった昭和二十年代のことであろうか。人々が詰めかける入場口には大きな箱と張り紙。兄は笑いながら言った。入場料が払えない人はこの箱にサツマイモを何個か入れなさい、そう書いてあったんだよ…。
兄はもうひとつのエピソードも披露した。やはり戦後まもない頃のこと。学校の先生が生徒に言う。明日は工作にイモを使うので各自二個ずつ持って来なさい。生徒は言われた通り持参する。教壇に立つ先生が足元の箱を指差して言う。イモ一個はここに入れなさい…工作に使うのは一個だけ、あとは先生の食料だったのだ。ふたつのエピソードが戦争を経たニッポンという国の、貧しかった時代をよく表している。

小中学生の時代、常に腹が減っていたという記憶がある。甘い物にも飢えていた。野山に行ってアケビをとり、落ちたら大ケガすること必定、崖道の桜に登って実をもぎ、口を紫色にしていた。蛙を食べたこともある。じき六十九歳になる男が少年時代に考えたのはいつも食うことだったような気がする。
そんな昔の記憶がある僕に、最近見たテレビの番組はちょっとした驚きだった。スリムであることに心を焦がす若い女性の多くが、日々の食事は千カロリー以下、それは終戦直後とほぼ同じという調査結果だった。ああ勿体ない。腹いっぱい食べられる時代なのに食べないなんて。

今年はカボチャをいっぱい作った。色も形も食味もさまざま。戦中派の兄はイモやカボチャばかりを食わされて嫌いになった。それとは反対、僕はカボチャが大好きなのだ。しかし例年、秋の終わり頃には品切れとなる。今年は春まで食えるくらい作ろう。五月、畑とは別にヤブまで開墾して苗を植えた。
いま倉庫にゴロゴロと転がる風景は僕が子供時代に夢見た「豊かさ」の象徴である。このカボチヤとトウガンをザク切りし、秋ナスと豚肉を加え、じっくり煮込む。霜の来る時期、体を温めてくれるに絶好の一品、もちろん栄養だって十分である。
もしサラリーマンとして順調だったら、それでもあなたはお百姓さんになっていた? 向けられたこの質問に僕は答えた。そうなあ、会社での挫折は単なるキッカケでしかなかったかもしれない。自分の手で食物を作りたいという願望、同級生の農家への憧れ、オレ、子供時代からえらくそれが強かったものな。
アマチュア家庭菜園を経て一応プロという名の農家になってから三十年。食料自給率はかなり向上した。ある日の夕餉、食卓を指折ってみた。山芋、生姜、里芋、カボチャ、ナス、大根、カボス、枝豆があった。その日の朝食にはトマトとピーマン、サツマイモを、昼食にはインゲン、白菜、卵を食べた。そして果物とおやつはポポー、柿、サルナシ、イチジク、栗、ミカンだったから、自給率は八割ほどということになるか。
「カネはなくとも百姓は豊か」である。ひとつ間違うと貧しき者の強がりに聞こえるかもしれない。でも僕はそう思っている。自分のそばに常に十分な食物があること、健康であること。これが僕の「豊かさ」の定義。脱サラ三十年。歯科と二度のケガ以外で健康保険証の世話にはならなかった。望外の幸運だった。毎日の労働で骨と筋肉と心臓が鍛えられる。畑の産物がほどよい栄養バランスをくれる。カネがなくともほんわか豊かな気分に導かれる。人生これで、けっこう儲かった気分になる。

昨今、世間は「下流老人」という言葉で賑わっている。下流であることに変わりない。ただ、悲観でしぼむ老人に僕はなりたくない。二本の腕、二本の足、「楽観のクソ度胸」でもって、更なる食料自給率向上を目指し、ひそかに、“豊かな晩年”を目論んでいる。

●プロフィール
中村顕治【なかむら・けんじ】昭和22年山口県生まれ。33歳で築50年の農家跡に移住。現在は千葉県八街市在住。典型的な多品種少量栽培を実践。チャボを庭に放任飼育する。ブログ「食うために生きる─脱サラ百姓日記」
http://blogs.yahoo.co.jp/tamakenjijibaba