今年も至る所で気象災害が生じた。南北アメリカやオーストラリアでは山火事、ヨーロッパでは洪水。国連の科学報告書は、「人類にとって非常事態、人間の影響で大気、海洋、陸地の温暖化が進んだことは明白だ」と言っている。
最近の天気は、ブレ幅が昔よりかなり大きくなっているのではないかという気がする。暑いとなるとトコトン暑い。降るとなると雨はトコトン降る。今、この夏から秋にかけての天気を振り返ると、まさにそうだった。八月四日、草取りをしていた。僕はもともと暑さには強い体質だが、それでも、ふだんとは違う暑さに、さて、どのくらいの気温なのだろうかと寒暖計を持ち出してみた。直射日光を浴びた自分の頭の位置で四十三度、地上温は五十八度だった。ところが、九月に入るや今度は雨ばかり、かつ低温。作物はどれも不満顔。もちろん僕も不満顔。
それでも無事に、人間も作物も定まらぬ天気を乗り越えた。新型コロナのワクチンを僕は六月から七月にかけて二回接種したのだが、もし副反応が出て畑仕事に支障が出たらどうしよう、特に腕が上がらなくなって荷造り作業が出来なくなったら困るなあ…などと接種前に心配したのだが、全くそれらしい症状は出ず、今こうして秋を迎えた。
十月も半ばを過ぎた。サツマイモを掘り上げた所にソラマメ、エンドウをまき、ピーマンなど夏野菜の収穫を延ばすための防寒をし、ビニールハウスのビニールを張り替えるなど、この時期は作業に追われる。真夏には七時半まで働けるから嬉しいが、十月も下旬にかかると四時半に暗くなる。気持ちはかなりせわしない。
そんな今日、あたふた発送荷物を作っているところに郵便の配達があり、免許更新の案内が届いた。サラリーマン時代には車を運転する必要がなく、免許を取ったのは脱サラして農業を始めてから。
車を動かすこと自体に問題はない。アクセルとブレーキを踏み間違える心配もない。だが僕には弱点がある。道路の標識や指示の文字がうまく読めない。右左折禁止とか、車線変更禁止とかをとっさに目で確かめるのが苦手なのだ。だから大きな国道は走れない。片側一車線の道路しか走れない。そんな僕を、免許を取って数か月で高速道路をぶっ飛ばしたという隣の奥さんが笑う。高速道路を一度も走ったことがない男の人って、きっと、日本全国、ナカムラさんだけだね…。
今度の免許更新はちょっとハードルが高い。じきに後期高齢者となる僕を、認知機能検査だの高齢者講習だのが待ち受けている。ついさっきまで手に持っていた道具が見つからない。歩いている途中で、さて、オレは何をしにアッチに向かっていたのだろうかと、元の道に戻って考える…確かに老化の兆しは見えている。
だから、年内に行く自動車教習所がちょっと心配なのだ。総合的な体力という点ではまだ自信がある。先ほど書いたように、五十度を超える畑で働いても熱中症にはならないし、ノコギリを手にして高い木の上を渡り歩くこともできる。連日の熱帯夜もエアコンなし、扇風機で乗り切った。
最近テレビの取材を受けたのだが、朝のランニングで坂道を駆け上り、車のタイヤに足を挟んで腹筋を二百回、ヤマモモの木で懸垂三十回やる、そんな僕をカメラマンが目を丸くして見ていた。だから冗談半分に思うのだ。もし免許更新のテストが腹筋や懸垂ならば、俺、ラクラク合格するんだがなあ。
だが、そんな僕にも思わぬところで老化が顕著に表れている。腰と背中がずいぶん曲がってしまったのだ。スーパーのガラス戸に映る前屈みの自分の姿を初めて見た時はちょっとショックだった。子供の頃、隣家のおばあさんを見て不思議に思ったことがある。木の棒を使って豆の莢を取っている、藁を編んで草履を作っている…そのおばあさんの体はくの字に近いほど曲がっていた。どうしてあんなふうになるのだろう?
その六十何年か前の疑問が今この年齢になって解けた。人力に頼る農業で生きる人間の、どうやら宿命らしいのだと。
思えば、種をまく、間引きをする、栗を拾う、大根や人参や山芋を抜いて水洗いする、大豆や小豆の選別をする、全てが前屈みの姿勢だ。箱に入れた里芋やジャガイモを運ぶ時もやはりそうだ。それを何十年も続けていたら骨は曲がらずにはいられない。
それで一念発起した。朝のランニングの後、丸い輪の上で背骨を伸ばす。夕刻、畑仕事の後には、軽トラのフロントに背中を当て、仰向けになって月や星を眺めつつ腰と背骨を伸ばす。頭上に瞬く星々が過去の時間を引き戻す。念願の農地を手に入れて三十六年という歳月。この地に移り住んだのは三十九歳。まだ青年と呼んでよかった男が、気付けば背中の曲がった後期高齢者なのである。背中は曲がった。しかし幸い働く意欲は全く衰えていない。畑作業の喜びは三十六年前と変わらない。